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技術 (ギジュツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

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技術(ギジュツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク デジタル大辞泉 「技術」の意味・読み・例文・類語 ぎ‐じゅつ【技術】 1 物事を取り扱ったり処理したりする際の方法や手段。また、それを行うわざ。「 技術 を磨く」「高度な表現 技術 」 2 科学の研究成果を生かして人間生活に役立たせる方法。「先端 技術 の導入」「産業界における 技術 革命」 [類語]( 1 ) 手並み ・ 手腕 ・ 手の内 ・ 妙手 ・ 手際 ・ 手練 ・ 凄腕 ・
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技術(ギジュツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク デジタル大辞泉 「技術」の意味・読み・例文・類語 ぎ‐じゅつ【技術】 1 物事を取り扱ったり処理したりする際の方法や手段。また、それを行うわざ。「 技術 を磨く」「高度な表現 技術 」 2 科学の研究成果を生かして人間生活に役立たせる方法。「先端 技術 の導入」「産業界における 技術 革命」 [類語]( 1 ) 手並み ・ 手腕 ・ 手の内 ・ 妙手 ・ 手際 ・ 手練 ・ 凄腕 ・ 技巧 ・ 技法 ・ 手法 ・ 技芸 ・ 技能 ・ 技量 ・ 腕 ・ 腕前 ・ 技 ・ テクニック ・ メチエ /( 2 ) 工法 ・ 製法 ・ テクノロジー 出典 小学館 デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by 関連語 テクノロジーアセスメント テクノナショナリズム 石油化学コンビナート エンジニアリング 日米安全保障条約 精選版 日本国語大辞典 「技術」の意味・読み・例文・類語 ぎ‐じゅつ【技術】 〘 名詞 〙 ① 物を取り扱ったり、事を処理したりする方法や手段。 [初出の実例]「武芸にすぐれ奇特な技術のある者」(出典:玉塵抄(1563)三五) 「其人の技術を以て人民の智徳を進めたるに非ず」(出典:文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉二) 「特 (ひと) り小説の脚色 (しくみ) のみならず総じて美妙の技術 (ギジュツ) に在ては」(出典:小説神髄(1885‐86)〈坪内逍遙〉下) [その他の文献]〔史記‐貨殖列伝〕 ② 科学の理論を実際に応用し、自然を人間生活に役立つように利用する手段。 [初出の実例]「阿蘭之国精 二 乎技術 一 也」(出典:解体新書(1774)序) 「塩酸曹達は人々普く知る所の海塩にして日常の食味を調し百般の技術に用ること多し」(出典:舎密開宗(1837‐47)内) 出典 精選版 日本国語大辞典 精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by 日本大百科全書(ニッポニカ) 「技術」の意味・わかりやすい解説 技術 ぎじゅつ 「技術」ということばほど広く使われる用語は少ない。手法あるいは手段ということばに置き換えても差し支えないところに、最新の意味が含まれているかのように使われる。たとえば、政治技術、経営技術、教育技術、広告技術、スポーツの技術などである。「技術」はまた「科学技術」というように「科学」と並置して使うことが多くなっている。これは、科学的な技術という意味で使うよりは、科学とそれを応用する技術とをひっくるめて使う用語である。確かに科学は技術と接近し、現代では科学と技術とを計画的に結合することが可能となっており、今後さらに「科学技術」の用語は普及するであろう。しかし「技術」は「科学」より早く発生し、人類誕生以来の長い歴史をもっている。「科学」との接近は、1870年代の先進国で、大企業が物理学者や化学者を雇用し、政府が軍備や産業振興のために研究所を設置するようになってからである。それまでは「芸術」や「技芸」とよばれ、「科学」は「自然哲学」とよばれていた。 この「芸術」や「技芸」はギリシア語のテクネtechnē、ラテン語のアルスars(英・仏語のart、独語のKunst)を語源とし、「わざ、業、技、芸」の意味に使われていた。その最初の定義は、フランス百科全書派のディドロによる「同一の目的に協力する道具と規則」である。彼の協力者ダランベールは『百科全書』の序論で、F・ベーコンの「変化させられ加工される自然」という概念を用いて、その歴史をも自然史の一部門に加えた。このように、ある目的をもって活動する人間が創造した手段(道具、後の機械その他を含む)と知識(規則、さらに法則を含む)の体系systemという概念がすでに約2世紀前に確立しているのである。この時代の啓蒙(けいもう)思想の影響を受けて、 ゲッティンゲン大学 教授ベックマンJohann Beckmann(1739―1811)は、それまで「技芸史」Kunst Geschichteとよばれていた科目に、1772年「技術学」Technologieという呼称を与え、新しい学問領域を提唱した。内容は合目的手段の体系的目録である。このドイツで発生した「技術学」は、英語のテクノロジーtechnologyであり、17世紀から使われていたが、アメリカのジャクソニアン・デモクラシー時代から普及した。技術学の概念は、啓蒙思想から発展した民主主義の成立と深い関係があると同時に、人工的自然史という概念が伴っていることに注意せねばならない。 技術学との区別が問われることばに工学がある。工学engineeringの語源は、ラテン語のingenium、すなわち発明または天才の所産を意味する。エンジニアengineerとは、17世紀の火砲職人仲間のことであり、巧妙な兵器を発明して、これを取り扱う人たちをさしている。ところが、イギリスの万能的天才といわれるスミートンは1771年、civil engineerということばを初めて使用することによって、火砲職人と区別して市民に奉仕する職業人の役割を強調し、同年、その組織Society of Civil Engineeringを結成した。 イギリス産業革命 の末期、1818年、世界最初の工業専門家の学会Institution of Civil Engineersが創立された。この学会から機械、通信、電気、鉄鋼などの諸学会が分化、独立した。最初のシビル・エンジニアの学会は、運河、港湾、橋梁(きょうりょう)、道路など、いわゆる土木関係の職業人が多かったため、日本ではcivilを「土木」、engineeringを「工学」と訳している。「工学」はその成立の起源から、職業的な技術を意味する。大学の工学部やさまざまな工学会が、現在では一般市民と縁の薄い特殊な職業人の教育と研究を意味しているのは、そうした歴史的起源による。一方、「技術」と「技術学」は、教授の自由、学習の自由を誇りとし、職業教育を求めないゲッティンゲン大学の一般教育から誕生したが、その性格は今日にも及んでいる。しかしその後、ドイツ語のテヒノロギーTechinologieとテヒニークTechnik、英語のテクノロジーtechnologyとテクニクtechnique、ロシア語のテフニカтехникаとテフノロギアтехнология、日本語の「技術」と「技術学」も、厳密に区別して使っているわけではない。ドイツ語のテヒニークを即物的、テヒノロギーを学問の意味に使うことが多いが、英語や日本語ではますます混同され、普通、英語ではtechnology、日本語では「技術」が使われる。しかし、この混同は、「技術」とは何かという本質的な問題を論ずるときに混乱となる。「科学」が「技術」に接近し、「科学技術」に一体化される今日、その起源に立ち返って考えることが必要となってきている。 [山崎俊雄] 技術論 世界の技術論 技術とは何か、技術の概念をどのように規定するかを論じる学問を「技術論」とよんでいる。 産業革命による道具から機械への移行、その経済的意義について、最初に深い関心を寄せたのはマルクスである。マルクスは、ベックマンの後継者をはじめ、ユーアAndrew Ure(1778―1857)の『製造業の原理』(1835)、その他の技術学文献を広く読み、『経済学批判』(1861~1863、草稿)のなかに「機械、自然諸力と科学の応用」と題するノートをまとめ(1968公表)、後の彼の主著『資本論』第1巻(1867)のなかで、批判的な技術史とは「社会的な人間が生産諸器官を形成する歴史であり、それぞれの社会組織の物質的基礎を形成する歴史である」と述べ、道具から機械へ、機械体系から自動機械体系への発達を予測していることはよく知られている。 19世紀70年代以降、新興工業国ドイツに、カントの「物自体の考え」を継承した、技術についての哲学的思索の労作が誕生する。カップErnst Kapp(1808―1896)の『技術の哲学要綱』(1877)、ノワレLudwig Noiré(1829―1889)の『道具と、人類発展史に対するその意義』(1880)は、道具が人間に理性をもたらし、道具は人間の器官が外へ射影されたものであると唱えた。 20世紀に入ると、第一次世界大戦まではドイツ技術の躍進と歩調をあわせ、発明の創造こそ技術の本質であるとし、それが文化の世界を推進させるという楽観論的見解が支配するようになる。ベントUlrich Wendtの『文化力としての技術』(1906)、デュ・ボア・レーモンDu Bois-Reymond(1818―1896)の『発明と発明家』(1906)、デサウエルFriedrich Dessauer(1881―1963)の『技術的文化』(1908)、ツィンマーEberhard Zschimmer(1873―1940)の『技術の哲学』(1914)などがそれである。ついで、ゾンバルトの『技術と文化』(1910)は、技術を合目的な手段体系に拡大解釈し、 ゴットル・オットリリエンフェルト の『経済と技術』(1914)は、技術の自立的要素を抽出してみせた。経済学者ゾンバルトとゴットルの著書はドイツ技術論の双璧(そうへき)とよばれる。その技術的合理主義は、産業合理化を進めた資本主義安定期の指導理念となった。経済学者の多くは、その後の技術的改良による産業合理化の社会的帰結である失業問題を論じた。ホブソンの『合理化と失業』(1930)、レーデラーの『技術的進歩と失業』(1931)などがそれである。 第一次世界大戦後のアメリカでは、 テクノクラシー technocracy(技術主義)の父と仰がれるベブレンが『技術家と価格制度』(1921)を著し、技術主義思想のアメリカ的原型をつくった。1929年、アメリカに端を発した世界大恐慌と、ソ連の五か年計画の発端は、テクノクラシーに代表される技術主義的社会改造論を課題とした。1932年、電気工学者スタインメッツらを中心に「技術家同盟」Technical Allianceが結成され、エネルギー決定論による資本主義的矛盾の解決を図る技術論を展開した。このような風潮のなかで生まれた マンフォード の『技術と文明』(1934)は、その後のアメリカ技術論に深い影響を与えている。彼は恩師のイギリスの生物学者・社会学者ゲデスPatrick Geddes(1854―1932)の技術史観を採用し、人類の歴史を動力と原料の技術的複合体から説明し、機械文明による矛盾の解決を「生」への接近、奉仕の夢に託した。今日の バイオテクノロジー の予言者である。 1930年代が進むにつれてふたたび戦争の危機が迫り、多くの科学者が反戦・ 反ファシズム運動 に参加した。イギリスの物理学者バナールは『科学の社会的機能』(1939)を著し、科学の現状を社会との関連において考察し、当時の研究組織がいかに科学と技術の自由な発展を阻害しているかを指摘し、科学者の社会的自覚を促した。この書は第二次世界大戦中における統一戦線の結成に大きな役割を果たし、その趣旨は第二次世界大戦後の1948年、「世界科学者連盟」が採択した科学者憲章に生かされている。 [山崎俊雄] 日本の技術論 日本で「技術」の概念が論じられるようになったのは第一次世界大戦後の1920年代からである。ことばとしての「技術」は、西周(にしあまね)の『百学連環』(1870)に初めて使われたが、西欧と同様に「技術」も「芸術」もartに包括されていた。技術が社会問題として論じられ始めたのは、米騒動を起点とする1920年代の諸運動の一環としてである。第一次世界大戦中に、日本の工業は飛躍的に発展し、技術者の産業、行政における役割は増大した。それまでの法科万能主義に対して「技術者の覚醒(かくせい)、団結、社会的機会均等」を標語とする革新的な技術官僚、理工農科系出身経営者の諸団体が結成された。しかし日本のテクノクラット運動は、同時に発生した欧米の知識労働者の運動や科学者の反ファシズム運動と連帯する機会を失い、戦争に協力する科学技術動員体制に組み込まれていった。 技術の概念が理論的に研究されるようになったのは1930年代からである。三枝博音(さいぐさひろと)、岡邦雄(くにお)(1890―1971)、服部之総(はっとりしそう)、戸坂潤たちが、1932年(昭和7)に創立した唯物論研究会は、当時の国際的な技術主義と反技術主義の風潮を批判するために技術論を重要な課題とした。戸坂は、技術の領域こそ自然科学と社会科学とを共軛(きょうやく)しうる唯一の体系をなす哲学とみなし、『技術の哲学』(1933)を著した。1933~1935年、技術論をめぐって、戸坂のほか、岡、永田広志、梯(かけはし)明秀(1902―1996)、相川春喜(1909―1953)らが加わり、技術論争が展開された。論争の焦点は技術の主観的契機に置かれ、技術概念の主観化が永田により批判され、相川によって次の結論が与えられた。すなわち「人間社会の物質的生産力の一定の発展段階における社会的労働の物質的手段の複合体であり、一言にしていえば、労働手段の体系に外(ほか)ならない」(相川春喜『技術論』1935)。この帰結、いわゆる「労働手段体系」説は、ブハーリンの引用とされているが、実はブハーリンを批判したレーニンの意見であることがのちに明らかとなっている。この説の要点は、人間労働を可能にしたものの複合体(労働手段体系)に技術の本質をみいだしていることである。隣接概念の「科学」は自然と社会における法則を発見する創造活動であると同時に、その知識の体系(総体)である。科学に主体的要素をもたせるために、技術から主体的要素を取り除くのが労働手段体系のねらいである。もちろん芸術には主体的要素が含まれるから、技術と芸術がアートに一体化されていた近代以前では、技術にも主体性があったが、近代以後では主体性は技術から取り除かれた分だけ科学に与えられつつあるといってよい。 しかし、第二次世界大戦中、日本にも初めて科学技術政策が登場すると、人間主体の根源である労働の概念に技術の概念が代置される傾向が生まれた。相川は「実践的一者の立場」(『現代技術論』1940)に変質し、三木清は「技術は手段であるとともに自己目的であり」、そして「技術は行為であり、行為の形態である」(『技術哲学』1942)というように、技術に主体と客体との統一を求める立場が支配し始めた。この立場は労働手段体系を基本的に支持しながらも、技術を実体としてとらえることに同意できない人たちの見解を代表し、第二次世界大戦後も引き続き唱えられた。 [山崎俊雄] 戦後世界の技術論 第二次世界大戦後の日本では、人間行動の目的意識性と合法則性とを指摘し、その主体性を強調する技術論が自然科学系学者によって提唱された。物理学者の武谷三男(たけたにみつお)はすでに1940年に、「技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」と述べた。この説は1942年相川によって批判されたが、労働を生産的実践に置き換え、意識的適用に技術の本質があるという見解として今日でも流布している。とくに技術は科学の応用であるという俗見に支持されている。 外国では、旧ソ連や東ヨーロッパがもっとも技術論に積極的であった。ズボルイキンA. A. Zworykin(1888―1982)は、かつて「社会的生産の体系における労働手段」(1938)と規定し、科学アカデミー版『技術の歴史』(1962)もこの規定を採用した。モスクワ動力大学のテキスト(1958)では「自然に関する認識に基づいて、人間によって創造される労働手段の総体」と規定している。このように、当時のソ連では、日本の唯物論研究会以来の「労働手段体系」説に近く、日本でいう適用説はまったくみいだせなかった。しかし、1962年の第22回共産党大会で定式化された党綱領に「科学技術革命」論が採用されてからは、この論を特徴づける「科学の直接生産力への転化」という命題をめぐって、当時のソ連国内はもとより国際的にも多くの議論がなされた。『 ソビエト大百科事典 』(第3版)では、技術を「生産過程の遂行と社会の非生産的サービスのために創造された人間の活動手段の総体」としている。「科学技術革命論」のもう一つの特徴は、生産様式から生産関係の側面を捨象した「技術学的生産様式」を論じていることで、その技術学とは「労働手段と労働対象との結合様式」と定義される。生産力を構成する三つの要素である労働対象、労働手段および労働力と、技術および技術学との関連は1930年代からの国際的な研究課題である。 戦後の日本では、戦前の論者に次いで、山田坂仁(1908―1987)、吉岡金市(1902―1986)、原光雄(みつお)(1909―1996)、田辺振太郎(しんたろう)(1907―1987)、星野芳郎(よしろう)(1922―2007)らが、この技術論論争に加わり、最近でも自然科学と社会科学の両分野から多くの技術論が試みられ、百家争鳴の感がある。戸坂が1930年代初頭に述べたように、技術の本質を明らかにするには、自然科学と社会科学の協同研究によって自然と社会を貫く共通の法則性をとらえる方法論が必要である。なお、戦前・戦後の技術論論争は、中村静治(せいじ)により整理された『技術論論争史』(1975)および内外の技術論を整理した『技術論入門』(1977)のなかで述べられている。 [山崎俊雄] 技術史の研究史 ドイツにおける技術史 技術史の研究と教育は、技術そのものが科学的研究の対象となった時代から始まる。「技術学」という学問領域を独立させたベックマンは、その学問体系の一環として『発明史への寄与』(1780~1805)を著した。彼の弟子ポッペJohann H. M. Poppeの『技術学史』(1807~1811)は技術史学を体系化した最初の文献である。 ドイツの技術史研究は、ドイツの統一後、1870年代から盛んになり、工科系学校の大学への昇格とともに、大学教授は積極的な意欲をもって個別技術学の講義に歴史的記述を採用した。 リュールマン C. M. Rühlmannの『一般機械学』(1862~1875)、『工業力学史』(1885)、カールマルシュK. Karmarschの『技術学史』、ルーローの『理論運動学』(1875)、ベックL. Beckの『鉄の歴史』(1891~1903)、ベックT. Beckの『機械製作史への寄与』などが19世紀における代表作である。なかでも『鉄の歴史』は全5巻の膨大な文化史的名著とされている。1900年代初頭、技術史研究は大学教育ばかりでなく現場技術者の全国的組織の運動を母胎として新しい段階を迎える。1856年に数人の青年技術者によって創設された、後の「ドイツ技術者連盟」 Verein Deutscher Ingenieure (VDI)が、技術者に歴史を親しませる運動方針をたて、マチョスC. Matschossを中心に技術史研究の組織化を図った。連盟はさらに科学技術文化財の保存に着手、1925年ミュンヘンに「ドイツ博物館」を完成させた。なお連盟は1909年から『技術・工業史年報』を刊行、第二次世界大戦で刊行を中断したが、1965年から季刊誌「技術史」として復刊している。 [山崎俊雄] イギリスにおける技術史 ドイツ歴史学派経済学の影響を受け、イギリスでは19世紀1870、1880年代より産業革命と個別技術史に関する著書が現れた。その研究の蓄積を受けて機械技術史家ディッキンソンH. Dickinsonらは「ニューコメン協会」を創立、1922年から会誌を発行、その研究には経済史家も参加し、イギリス産業革命の技術史的側面を実証的に解明することに寄与した。このようにイギリスでは、経済史家からの関心が深く、個別技術史家の層が厚い。第二次世界大戦中、弾道学の研究に従事、戦後、技術史や オートメーション の研究に携わったリリーS. Lilleyの『人間と機械の歴史』(1948)における技術を社会と歴史のなかに位置づける試みは、バナールと同様に戦前・戦中の反ファシズム統一戦線と無縁ではない。厚い技術史研究者層をイギリス最大の化学企業ICIが支援し、シンガーChales Singer(1876―1960)らの編集する『技術の歴史』全5巻(1957~1958、のちに2巻増補)が完成した。これは個別技術史家による実証的な個別技術史研究の集大成であり、権威ある定本となっている。 第二次世界大戦後の技術革新による技術記念物(遺物と遺跡)の破壊、消滅を防ぎ、文化財として調査、保存しようという国民運動の理論は産業考古学とよばれる。この学問は1955年イギリスで提唱され、産業革命期の工場や鉱山、鉄道、運河、橋、水車などの残存状態を調査し、その地域に復原して保存するという方法を重視し、時代の対象も古代から現代にまで拡大した。ナショナル・トラストその他の自然保護運動と結合して、1970年代から欧米、日本にもその研究と保存運動が進展し、技術史研究における文献依存の限界を突破し、地域の野外博物館創設を促進している。 [山崎俊雄] その他の国の技術史 1929年当時のソ連は高等教育機関の教授要目中に技術史の採用を初めて決議した。その最初の試みである ダニレフスキー W. W. Danilevskiyの『18~19世紀技術史概観』(1934)は、日本の技術史研究にも大きな刺激を与えている。1935年ソ連科学アカデミー自然科学史・技術史研究所が設立され、世界最初の技術史の通史テキスト『技術の歴史』(1962)が刊行された。 アメリカでは、フーバー大統領夫妻が16世紀のアグリコラ著『デ・レ・メタリカ』の英語訳を刊行し、1920年代のテクノクラシー時代には技術古典の研究が盛んであったが、技術史の重要性が認識されたのは1957年のスプートニク・ショック以後である。1958年「技術史学会」が創立され、会誌『技術と文化』が発行され、急速に研究と教育が盛んになり、工学教育での技術史の有効性が強調されている。軍大学校のテキスト『技術と西洋文明』(1967)では、発明の企業化inovationと技術の用途的・地域的普及transferの問題が重視されている。 フランスでは、世界最古の技術史博物館であるパリの国立工芸博物館が研究の中心であり、同館のドーマM. Daumasが編集した『通史』全4巻(1926~1978)が刊行されている。オランダでは、 アムステルダム大学 のフォーブスR. J. Forbes (1900―1973)が古代技術史に他の追従を許さない著作を著している。近世日本と関係の深かったオランダとの技術史研究の交流が望まれる。 中国の技術史は、イギリス人ニーダムの『中国の科学と文明』(1961)が有名である。1957年中国科学院科学史研究所が創設され、会誌が発行されていたが、文化大革命のため停刊された。1980年中国科学技術史学会が創立され、翌年から会誌『自然科学史研究』が発行され、大学のテキストも出版されている。研究は古代の冶金(やきん)技術が多いが、近代化路線とともに近代、現代の研究が増加している。 [山崎俊雄] 日本の技術史 明治初期、福沢諭吉に代表される啓蒙(けいもう)的文明史の時代ののち、横井時冬(ときふゆ)(1860―1906)『日本工業史』(1897)に始まり、日本工学会編『明治工業史』(1931)に至る民間史学者による工業史の独立と個別工学者の協力の時代があった。本格的に技術史が論じられたのは、1930年代の技術論論争ののち、前記のダニレフスキーの邦訳(『近代技術史』1937)が刊行されてからであり、岡邦雄は、技術史が労働手段体系の発達史であり、技術学史は自然科学史の一部門であると唱えた。 自然科学史とともに技術史を研究する唯一の学会「日本科学史学会」が1941年(昭和16)に創立さ

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